映画がまだ活動写真と呼ばれていた頃、スクリーンの脇で、映画の説明をする弁士がおりました。
正式には活動写真弁士といい、大正から昭和初期にかけて、人々にたいへん親しまれました。

音楽は楽士達の生演奏。
楽器は、三味線、太鼓、バイオリン、アコーディオンなどさまざまでした。
都会の子供達が活動弁士の真似をして遊んだといわれ、「娯楽の王様」と呼ばれるほどの人気でした。

映画の発明、開発の先進国といわれる欧米諸国のパントマイム文化に対して、日本では古来より物語文化が花開いていました。

当時、文明の先端を走っていた映画フィルムにも、日本人は独特の「語り」をつけることにより、自分達のより親しめる、より楽しめる‘かたち’にするという知恵をみせました。
それが「活弁」です。

しかし、トーキーの時代到来と同時に無声映画は沈滞します。
活弁も無声映画と運命を共にしてきました。
ひとつの芸能が、時代の要請によっておこり、人々の心をとらえ、喝采をあび、隆盛を誇り、そしてまた、時代の流れとともに衰退していったのです。

当時活躍した活動写真弁士たちは残念ながら今はもうほとんどおりません。
このままほおっておいたらなくなってしまう日本の伝統芸能である話芸「活弁」を、無声映画の名作とともに、21世紀に蘇る新しい舞台芸として、麻生八咫・子八咫は、孤軍奮闘しています。